Shinakosan is Okinawan

1981年沖縄市生まれ、那覇市(のはずれ)育ちのウチナーンチュ。言語復興と脱植民地化が研究テーマ、琉球弧がフィールド。学生時代にルイジアナとハワイとロンドンに少し住んであとはずっと沖縄、時々旅人。琉球犬と暮らすのが夢、好きなそばはゆし豆腐そば。ビールとワインと泡盛があればだいたいハッピー。

御冠船歌舞団「Aloha ぬ生り島」

 

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御冠船歌舞団「Aloha ぬ生り島」

ワランチャー ミッチャイソーティ ヤイビータシガ、舞台見ジ行チャビタン。

琉球処分後に打ち寄せてくる貧困に「押し出される」形で海を渡ったウチナーンチュ。移民1世の血の滲むような努力はこれまで積極的に語られてきたわけではない。異国の地に残る決意をした、あるいは残らざるをえなかった1世たちは、現地の言葉を覚え、多くの貢献をすることで現地社会に溶け込んで行った。しかし彼らはウチナーンチュであることを辞めることはなかった。県系人が集まれば誰かが三線を弾く、すると他の誰かは紙皿を扇代わりに持ち踊る。その姿を見て育った3世、4世は堂々と言う「僕たちはガイジンじゃない、ウチナーンチュだ」と。

御冠船歌舞団は砂糖きびプランテーションで働くウチナーンチュのスライドショーを背景に「汗水節」を歌った。1世の流した汗はお金に代わり沖縄に届けられた。沖縄がソテツ地獄に喘いだ時代、移民として海外に渡った人々からの送金は当時の県歳入総額の実に70%近くを占めた。世界のウチナーンチュのチムグクルなしでは沖縄のウチナーンチュは生きられなかった。

「上り口説」「浜千鳥」と続いた。「上り口説」は私が小学生の頃他界した祖父の十八番だった。縁側に座り、泡盛をちびちびやりながらクルチやソテツやチャーギを植えた小さな小さな庭に向かい三線を弾く姿を今でも覚えている。ウチナーグチが分からなかった私は歌詞を理解していなかったが、その勇ましさは感じていた。ノーマンの歌い方は祖父のそれと重なるところがありぐっときた。エリックの解説を聞きながらプライドとレジスタンスという単語が浮かんだ。

「浜千鳥」は今では寝たきりの祖母の十八番だった。ヤマトで生まれ育ち戦後引き上げてきた祖母は、年頃になるまでウチナーグチ琉球舞踊も知らずに育ったが、両親の故郷に戻りそれらを学びアイデンティティを形成していったと話していた。琉球の音楽や舞踊はいつしか「学んでいる人たちだけの特別なもの」となったが、本当は生活そのものなのかもしれない。「特別なもの」として敬遠してきた私の意識からどうにかしないといけない。

客席にでいご娘がいるというスペシャルな状況で歌われる「艦砲ぬ喰ぇー残くさー」も良かった。国家や軍人にとっては「終わった」戦争も、ウチナーンチュからしたら73年たった今も「終わり」は見えない。さらには新しい軍事基地さえ作られようとしている。ハワイにチムワサワサーしながらニュースを追っているウチナーンチュがいるということ。彼らの故郷を守りたい。ウチナーンチュは仲井眞、翁長、玉城と3代に渡り「普天間を返せ、辺野古に作るな」と訴える知事をウチナーンチュは選んできた。沖縄の民主主義を生き埋めにする日本政府や、そもそもどういう問題が存在するかさえ知らずに暮らしている多くの日本人、私たちは彼らとの対話どう作っていけるのだろうか。

そして「鳩間節」。基地問題は何も沖縄島だけの問題ではない、奄美、沖縄、宮古八重山、与那国と約1000kmの琉球の島々の全てに新基地建設問題がある。安倍首相は中国に渡り「日中は互いに脅威とならない」と言って習近平国家主席と握手した。歴史的な日中合意は奄美や先島への自衛隊基地建設、そして辺野古新基地建設の「必要性」を根本から覆すものだが、未だ日本政府は過ちを正す様子を見せない。鳩間島から見える船は一体どのような船なのか。

沖縄県知事の翁長さんの顔写真がマギマギーとスクリーンに映り「懐かしき故郷」が歌われた。大阪に住んでいたウチナーンチュ普久原朝喜の作品。歌詞はこうだ「夢に見る沖縄元姿やしが 音に聞く沖縄変わてねらん 行ちぶさや 生まり島」、御冠船歌舞団は翁長さんに捧げる歌としてこの曲を歌った。数々の県民大会の写真が流れ、写真が変わるごとに3歳の息子が「アンマーこれも行ったよね」と言った。世界のウチナーンチュが、沖縄のウチナーンチュが、3歳のウチナーンチュが守りたい故郷、生り島とはなんだろうと改めて考えた。

最後は「海とぅ島」。先日カラハーイでりんけんバンドのオリジナルを聞き、名嘉睦念さんの作詞だと知り、耳に残るいい歌だと思っていた。御冠船バージョンも聞けて嬉しい。難しいことや悲しいことを語らなければならない沖縄、そこから目を向けて美しいことや面白いことだけを語り「消費する形で」沖縄を楽しむ人たちもいる中で、失われつつあるありのままの故郷をありのままの形で「いちまでぃん」残していきたいと声を上げる人たちがいる。「やふぁやふぁーとぅ」当たり前のことを当たり前にやっていく姿勢、エリックとノーマンから今年もたくさんのことを学んだ。彼らは「学問ツアー」と題して毎年沖縄に帰ってくるが学問しているのはいつも私たち沖縄のウチナーンチュだ。

拍手に包まれ退場する2人に「ナーチュケーン」の声、戻ってきたエリックの手にはサンバ。アッチャメーのリズム、みんなで会場をカチャーしていく。次々と人々が両手をあげ、立ち上がり、舞台にも上る。最後はたくさんの若いウチナーンチュが舞台を埋め尽くし「唐船ドーイ」。エリックが「ぐすーよー、彼らが琉球の未来ですよ」と言った。数ヶ月前に同じ場所で「語ろう!琉球の未来」というイベントをやった私はそのシンクロにもチムドンドン。こうしてものすごい舞台は幕を閉じた。

フンデーする子どもたちと出たり入ったりで、泣いたり笑ったり大忙しだったが、頑張って参加して良かった。うるさい子どもたちに怒ることもなく声かけてくれたり抱っこしてくれたりした周りの皆さんにも感謝。エリック、ノーマン、今年ン イッペーニフェーデービタン!